そもそも、どういった時に「物語」が発生するのか。今回はそれを考えてみる。
ここでの「物語」は「世界をある視点に基づいて切り取ったもの」という意味を表す。仮説として、『ある状況・又はある対象に没頭している時、その人の中で「物語」が発生する』と考えてみる。「没頭」とはつまり「脇目も振らずに目の前の物事に熱中すること」だと思うが、そのように、ある特定の物事に意識を集約させている時、人は「物語」の中にいると言えるのではないか。
「物語」を享受する人にとって「世界」は一時的に忘却されている。ここでいう「世界」は、「注意が分散されており、それゆえ人が際している現実のあり方」という意味で用いている。どこに向かうわけでもない意識がふわふわと宙づりになっているようなイメージを持つとわかりやすいかもしれない。基本的に、人はこっちのモードである方が多いと思う。常に何か1つに意識を傾けているのは限界があるし、外で歩いている時なんかにそんな状態が続いたらリスクが計り知れない。
ぼんやりとした「世界」の中で、何かに没頭することによって「物語」がその人の中で生まれるが、それは生活シーンの中で人間が取る特殊なケースである。映画は普通、スクリーンに映る「物語」に観客が引き込まれるという、その特殊なケースを経験できる媒体だと思う。しかし『クーリンチェ殺人事件』は、むしろそれを拒絶する方向性であり、それでいてなお観客を映画に釘付けにさせるという1つ次元の高い試みをしている点において、他の映画と一線を画していると評価する。